ちょっと立ち話 | 八朔たべる? | 2002/3

(八朔とは、こんなものです。)

八朔のおいしい季節になった。スーパーでも一個100円前後で並んでいる。
何処の家庭でもそうなように、食後みんなに声をかけた。「八朔食べる?」
上のヘタの所をちょっと切って、包丁で切れ目をいれて、菊の花のように皮をむいた。
中の袋をひとつひとつばらしながら薄い皮を剥くころ、子供達がテーブルに集まってくる。
最初の子がもぐもぐしている間に、後の子が食べ、前の子がごっくんとなるころ、次がむける。
後の子がもぐもぐしている間に、前の子が食べ、後の子がごっくんとなるころ、前の子がもぐもぐ・・・
なんともいいリズムで、剥かれた八朔の実が私の手から、無くなっていく。
「試験どうだったん?」「携帯、料金超えないように使ってね」
「今日こそは早くお風呂にはいりなさいよ」 [お弁当箱、早く出してね。」
私は剥きながら話しかける。
まだまだちいさかったころは、縄飛びの話しだったり、遠足の話しだったりしたけれど・・・
「おかあさんも食べたら・・・」 「うちは過保護だよねぇ  自分で剥くよ。」
『そう思う? 笑 いいのよ。』『人に剥いてもらったら、一層美味しいでしょ。』
2〜3個ぺろりと食べた頃、お気に入りのアーティスト(最近は芸能人のことをこういうの?)の 話しや、携帯電話の着メロの話しなんかで、にぎやかだった。
八朔、食べたいなら、食べたい人が剥いて食べればいいのだから、
子供に剥いてあげるまでしなくても、そんなことは、過保護。
私もそう思うこともあるし、人からも言われたりもするけれど、まっ、いいじゃない・・と思う。
私達のような核家族は、子供と対座する事が多くて、子供に強い自立を求める。
なんでも自分で。より高く、より早く、より強くと。
だから、自分のことは自分でするように、かなり厳しくしつけようとする。しかし、
教育的配慮のバランスは問題だが、人に甘えたり甘えられたりする事はちょっと大切かなって思う。
人の甘えを許す心は、優しさに繋がっているような、そんな気がする。間違っているかなあ・・・・・
「さあ、遅くならないうちにすることしなさいよ。」

一日もとうに終わった夜更け、お腹が空いたという夫に「八朔を食べる?」って聞いた。
「いらない。でも、剥いてくれるなら食べるけど・・・」『・・・もちろん剥きますわよ・・・』
子供たち同様に、剥いたのだけれど、
「そんなに早く剥けるわけないから、もうすこしゆっくり食べてよ。むしゃむしゃと食べるわねェ 」
「美味しい?太るよ・・・・・」
「そういえば、温泉行きの話しはどうなったの?アッシー君するって言ったのも嘘だったし・・・」
「口先人間も、いい加減にしないと・・・・大体ね・・・・$¢%%#&*@§∞・・・」
「それに、§*&#%£¢☆¥@£◎§@% だし・・・ったくもう・・・・・§@**・・・・」
しかし、夫は私の話しなんて全然聞いてなくて、TVを見てケラケラ笑った。
私が剥いてもらう時は・・・・きっと病院のベットの上・・・・・・・